第3回 東京へ

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― 野球が終わり、人生の次の試合が始まった

高校野球を引退した時、私はそれまで味わったことのない虚脱感に包まれた。
夏の大会で敗れた七月。最後の整列を終え、ユニフォームを脱いだ瞬間、胸に込み上げてきたのは悔しさだけではなかった。
あの厳しい練習の日々から、ようやく解放されたという安堵でもあった。

今の時代では想像しにくいかもしれないが、当時の高校野球は、とにかく厳しかった。
毎日が真剣勝負であり、練習はまさに地獄のようだった。
走る、声を出す、鍛える、また走る。主将としての責任もあり、精神的にも張り詰めていた。

それが突然終わったのである。
反動は大きかった。

大会後の一か月ほどは、何もする気が起きなかった。
朝起きても目標がない。部活もない。監督の声もない。仲間と汗を流す時間もない。
これまで野球が生活の中心にあっただけに、自分の中の何かがぽっかり抜け落ちたような感覚だった。

やがて周囲が受験勉強へと切り替わる中、私もようやく机に向かった。
だが、そこで思わぬ現実にぶつかった。

「勉強って、どうやったらいいのだろう」

野球なら分かる。走ればいい。素振りをすればいい。声を出せばいい。努力の仕方が明確だった。ところが勉強は違った。
何を、どこから、どう積み上げればいいのか、その方法すら分からなかったのである。

それでも何とか受験を乗り切り、進学先として決まったのが専修大学だった。
第一志望には遠く及ばなかった。

しかし、不思議と落胆ばかりでもなかった。
どうしても一度、東京に出てみたかったのである。地方で育った私にとって、東京は憧れの街だった。
何かが始まりそうな場所に思えた。

専修大学の最寄り駅は小田急線の向ヶ丘遊園駅。
私は同じ小田急線沿線の祖師ヶ谷大蔵にアパートを借り、東京での新生活を始めた。

ところが、期待に胸を膨らませていた東京生活は、思ったほど華やかなものではなかった。
人は多い。街は広い。電車は複雑だ。誰も自分のことなど知らない。
田舎から出てきた私には、その空気がどうにも馴染めなかった。
都会のスピードについていけず、どこか取り残されたような気持ちで日々を過ごしていた。

転機が訪れたのは大学二年の頃である。

先輩の下宿先があった京王新線初台駅前で、不動産屋の店先に貼られた賃貸情報を何気なく見ていた時だった。
突然、店のドアが勢いよく開き、中から若い女性が飛び出してきた。

「あんた、橋本先生の息子やろ!」

まさか東京のど真ん中で、そんな言葉をかけられるとは思わなかった。
驚いて話を聞くと、その女性は、地元で小学校教師をしていた母の教え子だった。
私の実家にも何度か遊びに来たことがあるという。

人の縁とは不思議なものである。

その出会いをきっかけに、私は二年生から初台に住むことになった。
その女性のことを私は親しみを込めて「ねえちゃん」と呼んだ。生活面でも精神面でも、本当に世話になった。
さらに、その不動産屋でアルバイトまで始めることになり、西新宿から初台界隈の地理には妙に詳しくなった。

祖師ヶ谷大蔵で感じていた孤独感は薄れ、東京での生活にも少しずつ居場所ができていった。

そして三年生になり、私は専修大学でも人気と実力を兼ね備えた三大ゼミの一つ、中村秀一郎ゼミに入ることになる。
これが後に、福岡へ戻り、福岡相互銀行へ入行する大きな伏線となった。

中村先生のもとで学んだ中小企業論は、私の進路に決定的な影響を与えることになるのだが、その話はまた次回に譲りたい。

今振り返ると、東京での学生生活には悔いも残る。
学生なのだから、もっと勉強すべきだったと思う。もっと本を読み、もっと多くの人に会い、もっと世界を広げることもできただろう。

それでも、あの東京での4年間がなければ、今の私はいない。
地方から出て、戸惑い、人の縁に助けられ、自分の進む道のヒントを見つけた。
東京は、私にとって人生の視野を広げてくれた街だった。